2013年7月3日水曜日

気候変動は悪か

昨日の続きです。
なんか似た話を前にもしているんですよね→コルサントとナブー

気候変動は悪で防止しなければならない、というテーゼが真か偽か、という話をしようと思ったのでした。
結論からいっておくと、真とも偽ともいえます。
この手のテーゼに万人が納得する解は存在しません。

よく「なぜ」を何回も繰り返すと本質がよくわかるといいますのでやってみましょう。

仮に気候変動、あるいは温暖化は防止しなければならない、とします。
なぜでしょうか。
人々に被害を与える気象災害の頻度が増えるからです。
変動に対応できない生物が絶滅して生物多様性が失われるからです。
さしあたりこのふたつの理由をもって次に進みます。

人々に被害を与える気象災害の頻度が増えることを防止しなければならないのはなぜでしょうか。
気象災害の頻度が増えればそれだけ被害を受ける人も被害の規模も大きくなるからです。
被害の内容は人命と財産ということにしておきます。
さらに、気象災害の被害を受ける人々の多くは発展途上国の人々である場合が多く、災害による被害に対して脆弱だという理由もあります。
脆弱だというのは、被害を受けた際にそこから回復するための経済的な体力がない、といってもいいと思います。

以上の理由を言い換えると人命と財産が不当に害されることを防止すべき、というふうにできましょうか。
ここでの不当ということばは、その被害が被害を受けた人の自発的な選択によるものではない、というくらいの意味です。
例えば競馬でお金を失った人は、自分で馬券を買うという選択をしているので、失ったお金は不当な被害とはいえない、ということです。
自然災害による被害は基本的に個人の選択では避けられないもので、選択によって避けられないという性質をさして不当としています。
人命と財産が不当に害されることを防止すべき、というテーゼに対する反論はちょっとむずかしいと思いますので、ここで止めておきます。

生物多様性が失われるのを防ぐ必要がある、というテーゼの理由はもう少し複雑です。
ひとつにはどんな生物にも(ここには植物など動物以外の生命も含まれます)人間の役に立つ可能性があり、その可能性をつぶさないために生物多様性を維持すべきという主張があります。
乱暴にまとめれば人々の幸せのために残すべき、ということです。

そもそもすべての生物には存在することそれ自体に価値があって、それゆえに存続してゆくべきだという主張もありまが、これを掘り下げると全体がわかりにくくなりそうなので今日は扱いません。

さて、気候変動を防止すべき理由としてふたつ挙げてみました。
「人命と財産が不当に害されることを防止すべき」という理由と「人々の幸せのため」という理由です。
両者はコインの裏表のようなものかと思います。
さしあたり「人々の幸せのため」という表面だけで議論しても今日の話には影響しません。

ここで今度は逆に考えてみます。
人々の幸せのために、気候変動を防止することが必要かどうか。
これを考えようとすると幸せってなんだろう、ということを考えなくてはなりません。


続きはまた明日にします。

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